昭和59年11月10日 月次祭
三代金光様は、いつも神様は願い以上のおかげを下されていうておられます。願い以上のおかげと言う事はどう言う事でしょうか、私共もそういうおかげを頂きたいと思います。願うたことが成就するところからまぁ信心は始まる訳ですけれども、なるほど願うた事が成就すると言う事は、有り難い事嬉しい事ですけれども、喉おも通れば熱さを忘れるで、その有り難さというものは何時までも持続すると言う事は出来ない。金光様の有り難い事は分っとると言う程度で終わる。
そこで何時も願い以上のおかげを頂かしてもらう、御教えでも我情我欲を離れて真の大道を開きなど、わが身は神徳の中に生かされてある。わが身は神徳の中にあるというもう事実を、心で身体で実感出来れる生活に入った。更に神徳の中に生かされてあるという喜び、私それが願い以上のおかげの世界だと思います。そこでやはり、我情を取り我欲を取る精進が必要でございますが、私もやはり痛ければ痛い痒ければ痒いで、願いはやっぱりございます。
ですからまぁ願うというても、私は願うその都度都度にね、願い方があると思うんです。ただどうぞどうぞと言うだけではなくて、改まって願うと言う事が、私は願いを本当の願いにするものだと、ただお願いをするというだけならね、その例えば願わなければならない、難儀なら難儀の問題というものを通して、自分というものを見極めて、自分というものが改まって願うていく、願い事が大きければ大きいだけ多いければ多いだけ、だから改まった生活心というか、私自身が改まって生きる事になります。
わが身は神徳の中に生かされてある、それが段々分かって来る、我情がいわゆる改まる事によって取れて来る。我欲がだんだん影を潜めてくる、そこに初めてわが身は神徳の中に生かされておる。それこそ願いもしなかったといゃ、願い以上思い以上のおかげの世界がそこにある。私は最近それを本当に感じます。神様は何時も願いの以上おかげを下さるんだなぁとね。だんだんこの我情我欲から改まって行くと言う事を、こりゃまぁ恐らく生涯かけての事でございましょうがね。
そういう信心生活が出来れる基本になる様なものを、めいめいが頂いておかげを頂いて行きたい。皆さん願い通りになったらさぞ良かろうと思うけれども、そうじゃないですね、いわゆる願い以上のおかげを頂いてと言うおかげを頂かせてもらう、いわゆる信心。まぁこう申しますとそれだけの事でございますけれども。そういう信心を繰り返させて頂くと言う事はどう言う事かと言うと、必ずそういう信心の心掛けとしてもろうて進めて参っておりますと、必ず節がございます。
ですからその節を私共が元気な心で乗り越えていく、元気な心でそこを通り抜けていくと、又一段と高いおかげの世界があるのです。ですから節があると言う事も楽しみなんです。まぁ節と言う事はまぁ普通でいうなら、難儀とか困ったなとか痛いとか痒いとかと言う事も入って来るでしょう。けどもそういう都度都度に私共がね、この節を日頃の信心に物言わせて有り難く頂きぬくという。
ここのところでまぁ言うならば、引いたり来たりしておる様な場合が沢山ありますが。それでは信心がいよいよ伸びて参りません。いわゆる願い以上のおかげと言った様なおかげは到達できません。皆さんどうでもひとつ願い以上のおかげを頂いて、勿体無いと言えれる様なおかげ、それにはどうでも、初めから我情我欲を離れてと言うと大変難しいようですけれども。
願い事がある、それなら色んな願い事があるその願い事のために、改まって願うという生き方を身に付けますと、その事自体が有り難い楽しく取り合わせ、その事自体が節であります場合はそれを乗り越えて、次のまた信心の境地が開けて参ります。三代金光様の願い以上、何時も願い以上のおかげを下されてと仰っておられます。そういうお心持ちというものが、それに私は少こぅしわかる様になった様な気が致します。それにいはいよいよ限りない信心、それはいよいよ節を大切にする生き方を身に付ける。
節と言うのはやはり、まぁ場合によっては痛いきついとか、と言う様な場合もありましょうけれども。その節を乗り越えると言う事が、次のまた信心の世界が開いて行く事が、だんだん体験されて参りますと、それもまた嬉しいそれがまた有り難い。そういう信心生活の一つの基本というものをしっかり身に付けて、お互いの生涯の信心にさせて頂きたいと思います。
どうぞ。